夏と猫と炭酸水

片想いぐらいが丁度いい。

鏡と美人について考えてみた。

★とご訪問ありがとうございます。

 

「デヴィっているでしょ?昔あの子の事近くで見たのだけどすごく不細工だったわ」

 

と、言う親戚の叔母さんは昔とても美しい方だった。うちの母とは違い、スレンダーで日本人離れした彫りの深い顔立ちに色白の肌をしていた。喋り方は上品で、いつも浮世離れた雰囲気を漂わせながらタバコをふかして話していた。

 

勿論、男の人が放っておくわけがない。

 

引く手数多な中で彼女は髭の似合う体の大きな叔父さんを選んだ。

 

彼はとても博識だった。どんな話しも分かり、そして膨らませられるそんな巧みな話術を持っていた。彼はその知識と技術を活かして会社を立ち上げた。

彼らには二人の娘がいた。叔母に似た美人な娘と叔父に似た愛嬌のある娘だった。姉はアメリカへ留学して、今は一児の母。妹は御曹司と結婚した。

 

ここまでなら非常に満ちたれた理想の家族に聞こえる。それこそ皆んながニコニコして幸せいっぱいな家族だ。

 

でも、これには裏がある。

 

おばさんは話し方は上品であったが、非常に気のきつい人だった。今は不摂生がたたって糖尿病になり、合併症状に悩まされている。

 

叔父は借金をしこたま作って会社をつぶした。ついでに人を騙し、他所に女を作っておばさんと別れた。ここ数年では自宅で倒れ、一緒に暮らしていた外国人に財布の中身を全て抜かれてとんずらをこかれた。

 

娘の長女の方は荒れた。荒れてどうしようもなくなり、アメリカに捨てられた。付き合う男は俗に言うダメ男ばかりだった。自分の娘にはいつもネチネチと嫌味を言っている。

 

娘の次女は1番まともだ。だが、貞操感が皆無だった。他所の男を誘っては関係を持っていたようで、酔うたびにしきりにに自慢して来た。

 

幼いながらにこの四人を見て育つと自然と「こんな大人にはなりたくない」と思って来るもので。ついで父親がまともでは無いとなると、いよいよ世の中にはまともな人間はいないのだろうと諦めが出てくる。

 

ここへ来て最近、やたらと周りから「人は顔だよな」と言われる。

 

いや、それは絶対違う。

 

どんな不細工だろうが、醜女だろうが、人はやっぱり中身だ。

 

自然と顔はその人の性格が現れてくるものだと自分は思ってる。

 

上記の四人だって昔は確かに可愛らしかったり、美しかったり、凛々しかったりしたが今となってはシワとシミが目立ち、口がいつもへの字で目の吊り上がった意地の悪そうな顔となっている。彼らをみて性格は顔にでるのだと分かった。

 

考え方が可愛い人は見た目も可愛いし、話していて幸せになる。考え方がかっこいい人は見た目もかっこいいし、考え方もかっこいい。

それはきっとその人の特色であって、きっとそれこそが個性やアイデンティティなんだと思う。見た目を必死に取り繕ったってどうせ綻びが出てくる。だったら自分のそこを磨いて自分らしい自分になっていきたいと自分は思うのである。それに歳をとったらどんな美人でもイケメンでも皆んな往々にして干しすぎた梅干しみたいになる。腕なんか小枝のようになるか、狸の置物のようなビール腹を揺らすことになるのである。そんな梅干しになった時、唯一残るのはその人の中身だけだ。そしてその中身はその後の人生を楽しくする唯一無二のアイテムだと思う。

 

なーんて、話を同僚にしたら神妙な顔をしていた。

多分、半分くらい内容をわかってない思う。

 

虚しくなったので会話を強制終了した。

今日も雨だった。